【事案の概要】
左大腿骨頸部を骨折したAが、Yの設置するB病院において、全身麻酔と局所麻酔である硬膜外麻酔を併用して左大腿骨の人工骨頭置換術を受けたところ、術中に心停止となり死亡したことから、Aの子であるXらが,担当医師Cらには,麻酔薬の過剰投与等の過失があり,Aはこれにより死亡するに至ったとして、Yに対し,不法行為に基づく損害賠償請求訴訟を提起。
【原判決】
(1) 本件において使用された麻酔薬は、各麻酔薬の投与量を単独で検討する限りは、いずれについても過剰と認めるには足りない。しかし,塩酸メピバカインの能書には,硬膜外麻酔のための高齢者への投与について、投与量の減量を考慮すべき旨の、プロポフォールの能書には,局所麻酔薬との併用時には通常より低用量で適切な麻酔深度が得られる旨の各記載があること、複数薬剤による相乗効果及び上記両薬剤を併用した場合には一方の必要量が少なくなることについては多くの文献で指摘されていることなどからすると、本件においても、麻酔医としては、個々の能書に規定する年齢,体重,身長等による増減を考慮し、他の薬剤との相互作用を考慮した麻酔薬総量に対する配慮をすべきであったということができる。
それにもかかわらず、C医師は,プロポフォール及び塩酸メピバカインがそれぞれ単独で使用される場合を想定した用量を投与し、また、後者については能書に記載された硬膜外麻酔における成人に対する通常の用量の最高限度の量を投与しており、上記配慮がされたものとは認められない。
C医師には、プロポフォールを主体とする全身麻酔と塩酸メピバカインによる局所麻酔を併用するに当たり、これらを併用するという事情及びAの年齢等の個別事情に即した薬量を配慮しなかった過失があり、これにより、本件心停止が生じ、死亡の原因となった。
(2) また、本件病院の担当医師らは、手術創の縫合や気管内挿管等を先行させたことによって時間を費やした結果、心停止後早急に開始すべき心臓マッサージを心停止から5分以上経過して開始しており、心停止後直ちに心臓マッサージを開始しなかったことも、過失と評価することができる。
(3) もっとも,仮にC医師において薬量の加減を検討して塩酸メピバカインの投与量を減らしたとしても、その程度は麻酔担当医の裁量に属するものであり、その減量により本件心停止及び死亡の結果を回避することができたといえる資料もなく、また速やかに心臓マッサージが開始されたとしても、死亡の結果を回避することができたといえる資料もない。したがって,Aの死亡を回避するに足る具体的注意義務の内容(死亡と因果関係を有する過失の具体的内容)を確定することは困難である。そうすると、Aの死亡につき、担当医師らの過失があったとすることはできず、YにAの死亡についての不法行為責任を問うことはできない。
(4) しかし、薬量の加減を検討して、塩酸メピバカインの投与量をある程度減らしていた場合には血圧低下の程度及びその持続時間がより緩和されたものとなって心停止を回避することができた可能性が、また、速やかな蘇生措置が施された場合には蘇生の可能性がそれぞれ高まり、午後7時53分ころのAの死亡を回避し、延命を得た可能性が相当程度あることは否定できないから,Yは,Xらに対し,Aが上記可能性を侵害されたことによって被った損害を賠償すべき不法行為責任を負うものと解するのが相当である。
【本判決】 破棄差し戻し
原審の上記3(3)の判断は是認することができない。その理由は,次のとおりである。
(1) 前記事実関係によれば、次の事実が明らかである。
ア 本件手術当時、Aは、年齢65歳で、身長143cm、体重43kgであった。
イ 全身麻酔薬であるプロポフォールの能書では、プロポフォールの投与によって就眠が得られた後は、通常、成人では4~10mg/kg/時の投与速度で適切な麻酔深度が得られるとされ、導入後10分間10mg/kg/時、10~20分間8mg/kg/時、20~30分間6mg/kg/時、30分間以降全身状態を観察しながら調節するとの使用例が記載されていた。
ウ 局所麻酔薬である塩酸メピバカインの能書では、通常,成人には、硬膜外麻酔の場合2%注射液使用時で200~400mg(注射液としては10~20ml)を投与するとされていた。
エ プロポフォールを塩酸メピバカインと併用投与する場合は、プロポフォールの通常の用量よりも低用量で適切な麻酔深度が得られ、併用により血圧及び心拍出量が低下することがあるので、投与速度を減ずるなど慎重に投与すべきであり、また、一般に高齢者では循環器系等への副作用が現れやすいので,投与速度を減ずるなど患者の全身状態を観察しながら慎重に投与すべきものであることが能書上明らかであった。
オ 塩酸メピバカインには、重大な副作用として徐脈、心停止等のショックがあり、その投与量は年齢、麻酔領域、部位、組織、症状、体質により適宜増減すべきもので、一般に高齢者では麻酔範囲が広がりやすく、麻酔に対する忍容性が低下しているので、投与量の減量を考慮するとともに患者の全身状態の観察を十分に行うなど慎重に投与すべきものであることが能書上明らかであった。また、高齢者への投与に関し、65~74歳の患者に対する下肢の手術の場合、2%塩酸メピバカイン注射液の硬膜外麻酔における投与量を8mlとする文献もあった。
カ 塩酸メピバカインを投与すると、交感神経節前線維を麻痺させ、交感神経を遮断することにより、末梢血管を拡張させて循環血液量を減少させる等の機序により血圧低下が生じ、心停止に至る可能性があるが、プロポフォールが投与されている場合には上記機序による血圧低下への影響が増大する。
(2)(1)の事実によれば,本件手術における麻酔担当医であるC医師は、プロポフォールと塩酸メピバカインを併用する場合には,プロポフォールの投与速度を通常よりも緩やかなものとし、塩酸メピバカインの投与量を通常よりも少なくするなどの投与量の調整をしなければ、65歳という年齢のAにとっては、プロポフォールや塩酸メピバカインの作用が強すぎて、血圧低下、心停止、死亡という機序をたどる可能性が十分にあることを予見し得たものというべきであり、そのような機序をたどらないように投与量の調整をすべき義務があったというべきである。
ところが、前記事実関係によれば、C医師は、全身麻酔により就眠を得たAに対し、2%塩酸メピバカイン注射液をその能書に記載された成人に対する通常の用量の最高限度である20ml投与した上、プロポフォールを、通常、成人において適切な麻酔深度が得られるとされる投与速度に相当する7.5mg/kg/時の速度で、午後1時35分から午後2時15分過ぎまで40分以上の間持続投与し、その間、Aの血圧が硬膜外麻酔の効果が高まるに伴って低下し、執刀が開始された午後1時55分以降は少量の昇圧剤では血圧が回復しない状態となっていたにもかかわらず、投与速度を減じず、その速度が能書に記載された成人に対する通常の使用例を超えるものとなっていた、というのである。そして、その結果、午後2時15分過ぎにAの血圧が急激に低下する事態となり、それに引き続いて心停止、さらに死亡という機序をたどったというのであるから、C医師には、Aの死亡という結果を避けるためにプロポフォールと塩酸メピバカインの投与量を調整すべきであったのにこれを怠った過失があり、この過失とAの死亡との間には相当因果関係があるというべきである。本件において、C医師がプロポフォールと塩酸メピバカインの投与量を適切に調整したとしてもAの死亡という結果を避けられなかったというような事情はうかがわれないのであるから、プロポフォールと塩酸メピバカインの投与量をどの程度減らすかについてC医師の裁量にゆだねられる部分があったとしても、そのことが上記結論を左右するものではない。
原審は,塩酸メピバカインの投与量を減らしたとしても、その程度は麻酔担当医の裁量に属するものであり、その減量により本件心停止及び死亡の結果を回避することができたといえる資料もないから,死亡と因果関係を有する過失の具体的内容を確定することはできないとするけれども、上記のように、本件の個別事情に即した薬量の配慮をせずに高度の麻酔効果を発生させ、これにより心停止が生じ、死亡の原因となったことが確定できる以上、これをもって、死亡の原因となった過失であるとするに不足はない。塩酸メピバカインをいかなる程度減量すれば心停止及び死亡の結果を回避することができたといえるかが確定できないとしても、単にそのことをもって、死亡の原因となった過失がないとすることはできない。
5 以上によれば,Yは,Aの死亡によって生じた損害を賠償すべき不法行為責任を負うというべきであり、これと異なる原審の判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。この点をいう論旨は理由があり、原判決のうちXらの敗訴部分は破棄を免れない。そして、Aの死亡によって生じた損害の点について更に審理を尽くさせるため、同部分につき本件を原審に差し戻すこととする。
この判決は、麻酔薬の量をどの程度減量すれば、患者の死亡の結果を回避することができたといえるかが確定できなくとも、過失の認定ができるとしたものです。患者側で麻酔薬の量を幾らにすべきであったという具体的な主張・立証までする必要はないことになり、過失の立証責任を軽減した判決といえます。