【事案の概要】
Yは外科、整形外科、胃腸科、内科、理学療法科を診療科目とする医院を経営する医師であるが、乳癌研究会の正会員であり、その診療科目に乳腺特殊外来を併記して乳がんの手術を手掛けていた。Yも、本件手術の前に、乳がんか否かの限界事例について乳房温存療法を一例実施した経験がある。
X(昭和23年生)は、手術生検等の結果、平成3年2月14日までに乳がんと診断された。
Yは、Xの乳がんについては胸筋温存乳房切除術適応と判断し、Xに対し、乳房を残す方法も行われているが、この方法については、現在までに正確には分かっておらず、放射線で黒くなったり、再手術を行わなければならないこともあることを説明した。
Xは、乳がんの治療が乳房を可能な限り残す方向へ変わってきたとの新聞の紹介記事に接しており、同記事は乳房温存療法に触れていた。XはYの診察を受けた際に、Xの心情をつづった手紙をYに交付した。本件手紙は、乳がんと診断され、生命の希求と乳房切除のはざまにあって、揺れ動く女性の心情の機微を書きつづったものであった。YはXに対し、本件手術を行ってその乳房を切除した。Xが医師の説明義務違反等を主張して訴訟提起。
【前提知識】
本件手術当時の乳房温存療法についての評価、実施状況等は次のとおりである。
ア 乳房温存療法は、それが奏功した場合には概ね患者の満足を得ており、同療法は、外科的侵襲が少ないため、術後の患側上肢の運動障害が少ないことのほか、美容的側面や患者の精神的側面及び生活の質の観点では、医療水準上確立した療法(術式)である乳房切除術に比べて優れていると評価できるものである。
欧米では、乳房温存療法は乳房切除術に比べて、乳がんの再発率、生存率の点で劣っていないか、むしろ優れていることが確認されていた。日本では、乳房温存療法の普及が比較的遅れており、乳房切除術が主流であった。平成4年7月にまとめられた乳癌研究会の調査によれば、その会員である236施設で行われた乳がん手術中乳房温存療法を実施した割合は平成元年度が6.5%、平成2年度が10.2%、平成3年度が12.7%であり、また、平成5年1月に公表された別の団体による調査によれば、平成3年に全国の129施設で乳房温存療法が実施され、その中には、大阪府下では、大阪府立成人病センターの外7病院が含まれていた。日本で実施された乳房温存療法の報告でも再発例はなく、同療法を実施した医師の間では同療法が積極的に評価されていた。また、平成元年2月に第49回乳癌研究会で「乳房温存術と放射線治療」というテーマについてシンポジウムが行われ、同年7月に第50回乳癌研究会で乳房温存療法の術式がテーマの一つとして採り上げられた。同年4月、乳房温存療法について安全性、有効性を立証し、その統一的基準を作成するために、厚生省の助成により、癌研究会付属病院乳腺外科部長である霞富士雄を班長とする「乳がんの乳房温存療法の検討」班(いわゆる霞班)が設置され、霞班は、同年10月には「乳房温存療法実施要綱」を暫定的に策定し、大阪府立成人病センターを含む10施設を参加させて臨床的研究を開始した。
イ しかし、本件手術当時、霞班による臨床的研究成果も未発表であり、日本における同療法の実施報告例は少なく、経過観察期間も短期間であって、同療法の術式も未確立であった。同療法によるがん細胞残存率や局所再発のおそれの問題について確定的な結論も出ておらず、同療法を実施してもリンパ節に転移していた場合等には他の術式を再度実施する必要があった。同療法の実施に伴って放射線照射を行う必要があるところ、その必要な放射線照射の程度、放射線照射による障害の有無についても研究途上にあった。以上のとおり、同療法の実施にはなお解決を要する問題点も多く、同療法が専門医の間でも医療水準として確立するには臨床的結果の蓄積を待たねばならない状況にあった。
Xの乳がんは、霞班の定めた「乳房温存療法実施要綱」の適応基準を充たすばかりではなく、本件手術当時乳房温存療法を実施していたほとんどすべての医療機関の適応基準を充たすものであった。
Yは、本件手術当時、乳房温存療法について、同療法を実施している医療機関も少なくなく、相当数の実施例があり、同療法を実施した医師の間では積極的な評価もされていること、Xの乳がんが上記霞班の定めた「乳房温存療法実施要綱」の適応基準を充たし、乳房温存療法の適応可能性があること及び乳房温存療法を実施していた医療機関を知っていた。
【原判決】 請求棄却
乳房が体幹表面にあって女性を象徴するものであり、本件手術のように手術によりこれを喪失することは、当該患者にその外観上の変ぼうによる精神、心理面への著しい影響を及ぼすものであることを考慮すると、手術の時点において、一般医師に広く知れ渡って有効性、安全性が確立しているもののみならず、専門医の間において一応の有効性、安全性が確認されつつあるもので、当該医師において知り得た術式も説明義務の対象に包含されると解するのが相当である。
Yは、Xに対し、乳房を残す方法があること、その方法によると放射線で乳房が黒くなることがあり、再度乳房を切らねばならないこともあることを伝えているから、一応、他に選択可能な治療方法、その利害得失、予後のいずれについても言及しているというべきである。
乳房温存療法は、その実施割合も低く、その安全性が確立されていたとはいえないことからすれば、Yにおいて、同療法実施における危険を冒してまで同療法を受けてみてはどうかとの質問を投げ掛けなければならない状況には至っていなかったと認めるのが相当である。したがって、Yの上記説明は、他に選択可能な治療方法の説明として不十分なところはなかった。
【本判決】
四 しかしながら、原審の上記判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
(1) 医師は、患者の疾患の治療のために手術を実施するに当たっては、診療契約に基づき、特別の事情のない限り、患者に対し、当該疾患の診断(病名と病状)、実施予定の手術の内容、手術に付随する危険性、他に選択可能な治療方法があれば、その内容と利害得失、予後などについて説明すべき義務があると解される。本件で問題となっている乳がん手術についてみれば、疾患が乳がんであること、その進行程度、乳がんの性質、実施予定の手術内容のほか、もし他に選択可能な治療方法があれば、その内容と利害得失、予後などが説明義務の対象となる。
本件においては、実施予定の手術である胸筋温存乳房切除術についてYが説明義務を負うことはいうまでもないが、それと並んで、当時としては未確立な療法(術式)とされていた乳房温存療法についてまで、選択可能な他の療法(術式)としてYに説明義務があったか否か、あるとしてどの程度にまで説明することが要求されるのかが問題となっている。
(2) ここで問題とされている説明義務における説明は、患者が自らの身に行われようとする療法(術式)につき、その利害得失を理解した上で、当該療法(術式)を受けるか否かについて熟慮し、決断することを助けるために行われるものである。
医療水準として確立した療法(術式)が複数存在する場合には、患者がそのいずれを選択するかにつき熟慮の上、判断することができるような仕方でそれぞれの療法(術式)の違い、利害得失を分かりやすく説明することが求められるのは当然である。
しかし、本件における胸筋温存乳房切除術と乳房温存療法のように、一方は既に医療水準として確立された療法(術式)であるが、他方は医療水準として未確立の療法(術式)である場合、医師が後者について常に選択可能な他の療法(術式)として説明すべき義務を負うか、また、どこまで説明すべきかは、実際上、極めて難しい問題である。
一般的にいうならば、実施予定の療法(術式)は医療水準として確立したものであるが、他の療法(術式)が医療水準として未確立のものである場合には、医師は後者について常に説明義務を負うと解することはできない。とはいえ、このような未確立の療法(術式)ではあっても、医師が説明義務を負うと解される場合があることも否定できない。少なくとも、当該療法(術式)が少なからぬ医療機関において実施されており、相当数の実施例があり、これを実施した医師の間で積極的な評価もされているものについては、患者が当該療法(術式)の適応である可能性があり、かつ、患者が当該療法(術式)の自己への適応の有無、実施可能性について強い関心を有していることを医師が知った場合などにおいては、たとえ医師自身が当該療法(術式)について消極的な評価をしており、自らはそれを実施する意思を有していないときであっても、なお、患者に対して、医師の知っている範囲で、当該療法(術式)の内容、適応可能性やそれを受けた場合の利害得失、当該療法(術式)を実施している医療機関の名称や所在などを説明すべき義務があるというべきである。そして、乳がん手術は、体幹表面にあって女性を象徴する乳房に対する手術であり、手術により乳房を失わせることは、患者に対し、身体的障害を来すのみならず、外観上の変ぼうによる精神面・心理面への著しい影響ももたらすものであって、患者自身の生き方や人生の根幹に関係する生活の質にもかかわるものであるから、胸筋温存乳房切除術を行う場合には、選択可能な他の療法(術式)として乳房温存療法について説明すべき要請は、このような性質を有しない他の一般の手術を行う場合に比し、一層強まるものといわなければならない。
(3) 本件についてこれをみると、Yは、開業医であるものの乳癌研究会に参加する乳がんの専門医であり、自らも限界事例について一例ながら乳房温存療法を実施した経験もあって、乳房温存療法について、同療法を実施している医療機関も少なくないこと、相当数の実施例があって、同療法を実施した医師の間では積極的な評価もされていること、Xの乳がんについて乳房温存療法の適応可能性があること及び本件手術当時乳房温存療法を実施していた医療機関を知っていたことは、前記のとおりである。そして、Xは、本件手術前に、乳房温存療法の存在を知り、被上告人に対し本件手紙を交付していることは前記のとおりであり、原審の認定によっても、本件手紙は、乳がんと診断され、生命の希求と乳房切除のはざまにあって、揺れ動く女性の心情の機微を書きつづったものというのであるから、本件手紙には、Xが乳房を残すことに強い関心を有することが表明されていることが明らかであって、Yは、本件手紙を受け取ることによって、乳房温存療法が上告人の乳がんに適応しているのか、現実に実施可能であるのかについてXが強い関心を有していることを知ったものといわざるを得ない。そうだとすれば、Yは、この時点において、少なくとも、Xの乳がんについて乳房温存療法の適応可能性のあること及び乳房温存療法を実施している医療機関の名称や所在をYの知る範囲で明確に説明し、Yにより胸筋温存乳房切除術を受けるか、あるいは乳房温存療法を実施している他の医療機関において同療法を受ける可能性を探るか、そのいずれの途を選ぶかについて熟慮し判断する機会を与えるべき義務があったというべきである。
もとより、この場合、Yは、自らは胸筋温存乳房切除術が上告人に対する最適応の術式であると考えている以上は、その考え方を変えて自ら乳房温存療法を実施する義務がないことはもちろんのこと、Xに対して、他の医療機関において同療法を受けることを勧める義務もないことは明らかである。
(4) 以上の点からみると、Yが本件手紙を受け取る前にXに対してした前記二(3)の説明は、乳房温存療法の消極的な説明に終始しており、説明義務が生じた場合の説明として十分なものとはいえない。したがって、Yは、本件手紙の交付を受けた後において、Xに対して上告人の乳がんについて乳房温存療法の適応可能性のあること及び乳房温存療法を実施している医療機関の名称や所在を説明しなかった点で、診療契約上の説明義務を尽くしたとはいい難い。
五 以上によれば、原審の判断には、診療契約上の説明義務の解釈を誤った違法があり、この違法は判決に影響を及ぼすことが明らかである。論旨はこれと同旨をいうものとして理由があり、その余の上告理由について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。そして、本件については、更に審理を尽くさせる必要があるから、これを原審に差し戻すこととする。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
乳房温存療法は当時、医療水準として未確立でした。一般論として、未確立の療法について常に説明義務があるとすることはできませんが、本件のような事実関係のもとでは未確立の乳房温存療法について説明義務があると判断したものです。