【事案の概要】
Yは,Z大学総合医療センター(以下「本センター」という。)の耳鼻咽喉科科長兼教授であり、同科の医療行為全般を統括し、同科の医師を指導監督して、診察、治療、手術等に従事させるとともに、自らも診察、治療、手術等の業務に従事していた。AはZ大学助手の地位にあって、Yの指導監督の下、耳鼻咽喉科における医療チームのリーダー(指導医)であった。Bは本センター病院助手の地位にあって、Y及びAの指導監督の下、耳鼻咽喉科における診察、治療、手術等の業務に従事していた。

本センターの耳鼻咽喉科における診療は、耳鼻咽喉科専門医の試験に合格した医師を指導医として、主治医、研修医各1名の3名がチームを組んで当たるという態勢が採られていた。その職制上、指導医の指導の下に主治医が中心となって治療方針を立案し、指導医がこれを了承した後。科の治療方針等の最終的決定権を有する科長に報告をし、その承諾を得ることが必要とされていた。難しい症例、まれな症例、重篤な症例等では、チームで治療方針を検討した結果を医局会議(カンファレンス)にかけて討議し、科長が最終的な判断を下していた。

Xは、平成12年8月23日、本センターで、Bの執刀により、右顎下部腫瘍の摘出手術を受け、術後の病理組織検査により、上記腫瘍は滑膜肉腫であり、再発の危険性はかなりあるという検査結果が出た。滑膜肉腫は、四肢大関節近傍に好発する悪性軟部腫瘍であり、頭頸部領域に発生することはまれで、予後不良の傾向が高く、多くは肺に転移して死に至る難病であり、確立された治療方法はなかった。9月7日、上記検査結果がカンファレンスで報告されたが、同科には、Yを始めとして滑膜肉腫の臨床経験のある医師はいなかった。Xの治療には、前記専門医の試験に合格しているAを指導医に、Bを主治医とし、これに研修医が加わった3名が当たることになった。

その後、Xは、9月25日から再入院することとなった。9月18日か19日ころ、Bは、同科病院助手のC医師から、VAC療法が良いと言われ、同療法を実施すればよいものと考えた。VAC療法とは、硫酸ビンクリスチン、アクチノマイシンD、シクロフォスファミドの3剤を投与するものである。硫酸ビンクリスチンの用法・用量、副作用、その他の特記事項は、同薬剤の添付文書に記載されているとおりであり、用法・用量として通常,成人については0.02~0.05mg/kgを週1回静脈注射する,ただし,副作用を避けるため,1回量2mgを超えないものとするとされており、重要な基本的事項として骨髄機能抑制等の重篤な副作用が起こることがあるので、頻回に臨床検査(血液検査,肝機能・腎機能検査等)を行うなど、患者の状態を十分に観察すること、異常が認められた場合には、減量、休薬等の適切な処置を行うこととされ、本剤の過量投与により、重篤又は致死的な結果をもたらすとの報告があるとされていた。また、各種の文献においても、その用法・用量について、最大量2mgを週1回、ないしはそれ以上の間隔をおいて投与するものとされ、硫酸ビンクリスチンの過剰投与によって致死的な結果が生じた旨の医療過誤報告が少なからずなされていた。

9月18日か19日ころ、Bは、本センターの図書館で文献を調べ、整形外科の軟部腫瘍等に関する文献中にVAC療法のプロトコール(薬剤投与計画書)を見付けたが、そこに記載された「week」の文字を見落とし、同プロトコールが週単位で記載されているのを日単位と間違え、同プロトコールは硫酸ビンクリスチン2mgを12日間連日投与することを示しているものと誤解した。そのころ、Bは、Aに対し、上記プロトコールの写しを渡し、自ら誤解したところに基づき、硫酸ビンクリスチン2mgを12日間連日投与するなどの治療計画を説明して、その了承を求めたが、AもVAC療法についての文献や同療法に用いられる薬剤の添付文書を読まなかった上、上記プロトコールが週単位で記載されているのを見落とし、Bの上記治療計画を了承した。さらに、9月20日ころ、Bは、Yに、Xに対してVAC療法を行いたい旨報告し、Yはこれを了承した。Yは、その際、Bに対し、VAC療法の具体的内容やその注意点などについては説明を求めず、投与薬剤の副作用の知識や対応方法についても確認しなかった

9月27日からXへの硫酸ビンクリスチン2mgの連日投与が開始された。同日、Bは、看護師から硫酸ビンクリスチン等の使用薬剤の医薬品添付文書の写しを受け取ったが、Xの診療録につづっただけで、読むこともなかった。9月28日のカンファレンスにおいても、BはXにVAC療法を行っている旨報告したのみで、具体的な治療計画は示さなかったが、Yはそのままこれを了承した。

9月27日から10月3日までの7日間、Xに硫酸ビンクリスチン2mgが連日投与され、10月1日には、歩行時にふらつき等の症状が生じ、10月2日には、起き上がれない、全身けん怠感、関節痛、手指のしびれ、口腔内痛、咽頭痛、摂食不良、顔色不良等が見られ、体温は38.2度であり、10月3日には、強度のけん怠感、手のしびれ、トイレは車椅子で誘導、口内の荒れ、咽頭痛、前頸部に点状出血などが認められ、血液検査の結果、血小板が急激かつ大幅に減少していることが判明した。そこで、同日、Bの判断により、血小板が輸血され、硫酸ビンクリスチンの投与は一時中止された。

Yは、9月28日の教授回診の際、Xを診察し、10月初め(10月2,3日ころと認められる。)、病棟内でXが車いすに乗っているのを見かけ、抗がん剤の副作用で身体が弱ってきたと思い、10月4日にはXの様子を見て重篤な状態に陥っていることを知ったが、硫酸ビンクリスチンの過剰投与やその危険性には思い至らず、Bらに対し何らの指示も行わなかった。

10月6日夕方、A、B、C医師が、Bが参考にしたプロトコールを再検討した結果、週単位を日単位と間違えて硫酸ビンクリスチンを過剰に投与していたことが判明した。Xは、10月7日午後1時35分,硫酸ビンクリスチンの過剰投与による多臓器不全により死亡した。

症例として18歳の女性に誤って5日間連続して1日2mgのビンクリスチンを投与したものの生存した例があり、本センター救命救急センター教授Dは、10月1日の5倍投与の段階であれば、応援要請があれば救命の自信があり、10月4日までなら実際に治療してみないと分からないと供述している。

 

【本判決】
右顎下の滑膜肉腫は、耳鼻咽喉科領域では極めてまれな症例であり、本センターの耳鼻咽喉科においては過去に臨床実績がなく、同科に所属する医局員はもとよりYですら同症例を扱った経験がなかった。また、Bが選択したVAC療法についても、B、Aはもちろん、Yも実施した経験がなかった。しかも、VAC療法に用いる硫酸ビンクリスチンには強力な細胞毒性及び神経毒性があり、使用法を誤れば重篤な副作用が発現し、重大な結果が生ずる可能性があり、現に過剰投与による死亡例も報告されていたが、Yを始めBらは、このようなことについての十分な知識はなかった。さらに、Bは、医師として研修医の期間を含めて4年余りの経験しかなく、Yは、本センターの耳鼻咽喉科に勤務する医師の水準から見て、平素から同人らに対して過誤防止のため適切に指導監督する必要を感じていたものである。このような事情の下では、Yは、主治医のBや指導医のAらが抗がん剤の投与計画の立案を誤り、その結果として抗がん剤が過剰投与されるに至る事態は予見し得たものと認められる。そうすると、Yとしては、自らも臨床例、文献、医薬品添付文書等を調査検討するなどし、VAC療法の適否とその用法・用量・副作用などについて把握した上で、抗がん剤の投与計画案の内容についても踏み込んで具体的に検討し、これに誤りがあれば是正すべき注意義務があったというべきである。
しかも、Yは、BからVAC療法の採用について承認を求められた9月20日ころから、抗がん剤の投与開始の翌日でカンファレンスが開催された9月28日ころまでの間に、Bから投与計画の詳細を報告させるなどして、投与計画の具体的内容を把握して上記注意義務を尽くすことは容易であったのである。ところが、Yは、これを怠り、投与計画の具体的内容を把握しその当否を検討することなく、VAC療法の選択の点のみに承認を与え、誤った投与計画を是正しなかった過失があるといわざるを得ない。したがって、これと同旨の原判断は正当である。

抗がん剤の投与計画が適正であっても、治療の実施過程で抗がん剤の使用量・方法を誤り、あるいは重篤な副作用が発現するなどして死傷の結果が生ずることも想定されるところ、YはもとよりB、Aらチームに所属する医師らにVAC療法の経験がなく、副作用の発現及びその対応に関する十分な知識もなかったなどの前記事情の下では、Yとしては、Bらが副作用の発現の把握及び対応を誤ることにより、副作用に伴う死傷の結果を生じさせる事態をも予見し得たと認められる。
そうすると、少なくとも、Yには、VAC療法の実施に当たり、自らもその副作用と対応方法について調査研究した上で、Bらの硫酸ビンクリスチンの副作用に関する知識を確かめ、副作用に的確に対応できるように事前に指導するとともに、懸念される副作用が発現した場合には直ちにYに報告するよう具体的に指示すべき注意義務があったというべきである。Yは、上記注意義務を尽くせば、遅くとも、硫酸ビンクリスチンの5倍投与(10月1日)の段階で強い副作用の発現を把握して対応措置を施すことにより、Xを救命し得たはずのものである。Yには、上記注意義務を怠った過失も認められる。

原判決が判示する副作用への対応についての注意義務が、Y人に対して主治医と全く同一の立場で副作用の発現状況等を把握すべきであるとの趣旨であるとすれば過大な注意義務を課したものといわざるを得ないが、原判決の判示内容からは,上記の事前指導を含む注意義務、すなわち、主治医らに対し副作用への対応について事前に指導を行うとともに、自らも主治医等からの報告を受けるなどして副作用の発現等を的確に把握し、結果の発生を未然に防止すべき注意義務があるという趣旨のものとして判示したものと理解することができるから,原判決はその限りにおいて正当として是認することができる。
よって、刑訴法414条,386条1項3号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

 

 

本判決は、科長Yの上告を棄却し、その結果、科長Yに執行猶予付きの禁固刑を認めた原判決が確定しています。

顎下の滑膜肉腫について扱った経験がなく、しかも、VAC療法についても実施した経験がないのに、医師免許を取って5年目の主治医に任せていたため、誰も主治医の重大なミスに気がつかず、気づいた時には手遅れとなっていたという、実際にあった事件です。Xは当時16歳だったとのことです。

 

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