【事案の概要】
本件は、未熟児網膜症に関する医療過誤訴訟です。Aは昭和49年12月11日に未熟児として出生。Aは昭和49年12月27日、B医院の眼科のC医師による眼底検査を受けたが、C医師は、Aの眼底に格別の変化がなく次回検診の必要なしと診断。その後、昭和50年2月21日の退院時まで眼底検査は全く実施されなかった。Aは退院後、同年3月16日にD医院の眼科で診察を受けたところ、既に両眼とも未熟児網膜症瘢痕期三度であると診断された。Aの現在の視力は両眼とも0.06である。AがB医院を経営するFに対し、診療契約上の債務不履行に基づく損害賠償請求訴訟を提起。

【原判決】
Aが出生した昭和49年当時、光凝固法は有効な治療法として確立されていなかったものであり、治療基準について一応の統一的な指針が得られたのは厚生省研究班の報告が医学雑誌に掲載された昭和50年8月以降であるから、Bが本症を意識して、未熟児に対する眼底検査をし、本症の発生が疑われる場合に転医をさせていたとしても、担当医師において、未熟児に対し定期的眼底検査及び光凝固法を実施すること、あるいはこれらのために転医をさせることが法的義務として確立されていたものとすることはできない。・・cが生後16日にAの眼底検査を実施しただけで、その後退院まで実施せず、そのための転医をさせなかったからといって、・・義務違反があるとはいえない。

【本判決】
Fは、本件診療契約に基づき、人の生命及び健康を管理する業務に従事する者として、危険防止のために経験上必要とされる最善の注意を尽くしてAの診療に当たる義務を負担したものというべきである。そして、右注意義務の基準となるべきものは、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準である。・・そこで、診療契約に基づき医療機関に要求される医療水準とはどのようなものであるかについて検討する。ある疾病について新規の治療法が開発され、それが各種の医療機関に浸透するまでの過程は、おおむね次のような段階をたどるのが一般である。すなわち、まず、当該疾病の専門的研究者の理論的考察ないし試行錯誤の中から新規の治療法の仮説ともいうべきものが生まれ、その裏付けの理論的研究や動物実験等を経た上で臨床実験がされ、他の研究者による追試、比較対照実験等による有効性(治療効果)と安全性(副作用等)の確認などが行われ、この間、その成果が各種の文献に発表され、学会や研究会での議論を経てその有効性と安全性が是認され、教育や研修を通じて、右治療法が各種の医療機関に知見(情報)として又は実施のたもの技術・設備等を伴うものとして普及していく。疾病の重大性の程度、新規の治療法の効果の程度等の要因により、右各段階の進行速度には相当の差が生ずることもあるし、それがほぼ同時に進行することもある。また有効性と安全性が是認された治療法は、通常、先進的研究機関を有する大学病院や専門病院、地域の基幹となる総合病院、そのほかの総合病院、小規模病院、一般開業医の診療所といった順序で普及していく。そして知見の普及は、医学雑誌への論文の登載、学会や研究会での発表、一般のマスコミによる報道等によってされ、まず、当該疾病を専門分野とする医師に伝達され、次第に関連分野を専門とする医師に伝達されるものであって、その伝達に要する時間は比較的短いが、実施のための技術、設備等の普及は、当該治療法の手技としての難易度、必要とされる施設や器具の性質、財政上の制約等によりこれに要する時間に差異が生じ、通常は知見の普及に遅れ、右の条件次第では、限られた医療機関のみで実施され、一般開業医において広く実施されるということにならないこともある。以上のとおり、当該疾病の専門的研究者の間でその有効性と安全性が是認された新規の治療法が普及するには一定の時間を要し、医療機関の性格、その所在する地域の医療機関の特性、医師の専門分野等によってその普及に要する時間に差異があり、その知見の普及に要する時間と実施のための技術・設備等の普及に要する時間との間にも差異があるのが通例であり、また、当事者もこのような事情を前提にして診療契約の締結に至るのである。したがって、ある新規の治療法の存在を前提にして検査・診断・治療等に当たることが診療契約に基づき医療機関に要求される医療水準であるかどうかを決するについては、当該医療機関の性格、所在地域の医療環境の特性等の諸般の事情を考慮すべきであり、右の事情を捨象して、すべての医療機関について診療契約に基づき要求される医療水準を一律に解するのは相当でない。そして、新規の治療法に関する知見が当該医療機関と類似の特性を備えた医療機関に相当程度普及しており、当該医療機関において右知見を有することを期待することが相当と認められる場合には、特段の事情が存しない限り、右知見は右医療機関にとっての医療水準であるというべきである。・・Bの医療機関としての性格、AがBの診療を受けた昭和49年12月中旬ないし昭和50年4月上旬の兵庫県及びその周辺の各種医療機関における光凝固法に関する知見の普及の程度等の諸般の事情について十分に検討することなくしては、本件診療契約に基づきBに要求される医療水準を判断することができない筋合いであるのに、光凝固法の治療基準について一応の統一的な指針が得られたのが厚生省研究班の報告が医学雑誌に掲載された同年8月以降であるというだけで、AがBの診療を受けた当時において光凝固法は有効な治療法として確立されておらず、Bを設営するFに当時の医療水準を前提とした注意義務違反があるとはいえないとした原審の判断には、診療契約に基づき医療機関に要求される医療水準についての解釈適用を誤った違法があるものというべきであり、右違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。

ある新規の治療法の存在を前提にして検査・診断・治療等に当たることが診療契約に基づき医療機関に要求される医療水準であるかどうかを決するについては、当該医療機関の性格、所在地域の医療環境の特性等の諸般の事情を考慮すべきであり、右の事情を捨象して、すべての医療機関について診療契約に基づき要求される医療水準を一律に解するのは相当でないと判断した重要な判決です。

 

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